1年半ぶりの岩波ホール。椅子が新調され座り心地がよくなっていました。でもスクリーンは古いまま、真面目で物静かで映画が好きそうなお客さんの層も変わらずでした。
『
ポー川のひかり』はイタリアの
エルマンノ・オルミ監督の最後の長編映画になるそうです。
ダヴィンチ・コードのようなサスペンスタッチで始まりますが、後半は美しい牧歌的な光景と素朴でやさしい人々に癒される映画です。
【
あらすじ】 (
ネタばれあります。ご注意ください)
夏休みに入ったばかりのイタリア・ボローニャ大学。見回りに来た図書館で守衛は異様な光景を目にし動転します。すぐに警察が出動し、ライダージャケットに身を包みバイクで駆けつける学部長。さすがイタリア男性、かっこいいです!そしてこの図書館に日参し歴史的書物を子供のようにいとおしみ大切にしている司教はショックで卒倒。
そこには図書館に所蔵された古文書が、無残にも床や机にぶちまけられ太い釘(くさび)で打ちつけられていました。まさに書物の磔刑のような、あるいは検察官の言葉によれば「芸術作品のような」見る者に衝撃を与えるシーンです。そう、映画の原題は「百本の釘」なんですね。
ここから犯人探しのミステリーが展開するかと思いきや、すぐに明かされます。犯人は将来を嘱望された哲学科のハンサムな若い教授。
騒ぎを知って愛車のBMWであてもなく逃走し、携帯電話を捨て、ポ―川にかかる橋のたもとで車を捨て、橋の上から車のキーや財布、ジャケットを川に捨て、最新の論文の原稿も燃やし過去と決別をはかります。
川岸に古い廃屋を見つけ、そこに住もうと食料や身の回りの品を買いに行った町で、もと煉瓦工の郵便配達の青年やパン屋の配達をしている若い女性と出会います。この若い人たちとの出会いから、川岸で共同生活をする老人たちと知り合い、少しづつ交流を深め、朽ちかけた廃屋は青年や老人たちの協力で立派な小屋に生まれ変わります。いつしか人々はイエス・キリストに似た風貌から彼を「キリストさん」と呼び、彼の話す聖書の「ワインの奇跡」や「放蕩息子の帰還」の話に耳を傾け、慕うようになります。
平穏に見えた老人たちの生活でしたが、彼らは実は不法占拠者であり、港の建設計画がもちあがり立ち退きを迫られ「キリストさん」に相談します。彼が皆の意見をまとめ請願書を作って提出したものの、罰金をつきつけられ払えずに困る住民たち。教授は身元がばれてしまうのを覚悟の上でクレジットカードを青年に渡し支払いにあてるよう伝え、それにより警察が居所をつきとめて教授は村を去ることに。しかし、自宅謹慎で済んだと聞いて老人たちは彼の帰りをひたすら待つのでした。
【
感想など】
キリスト教の知識も信仰もない私が映画のテーマを語る資格があるのか悩むところですが、書物を否定し釘を打ち付けた教授が語る「神は世界を救えない」「書物よりも人間のぬくもりを大事にしたい」「多くの書物より友と語る一杯のコーヒーを好む」という台詞は神の否定ではなく、現代社会の戦争や混沌から人々を救うことができずにいる宗教への疑念や知の先走りへの警告のようなものと受け止めました。
でも書物を否定する一方で、教授は書物から吸収した叡智と理論でもって人々に聖書の教えを説いているわけであり、自己矛盾がおきないのだろうかという疑問も感じます。
また意地悪い見方をすると、知の世界を飛び出し民の間に入っていった教授ですが、完全なる隠遁生活を目指すわけでもなくちょっと中途半端な「キリストさん」なのです。というのも財布は捨てても現金やクレジットカードは手元に残し、美味しい食料を確保し、論文はこれ見よがしに焼いてしまいますがなぜかDELLのパソコンは手放さす(パソコンに当然論文のファイルが残されているでしょう)、バッテリーはどうしているのかその後も村人の前でパソコンを使っています。
それはさておき、映画の大半をしめるポー川と流域の映像が美しいです。川面に落ちる雨粒、太陽の光を受けて輝く川面、ゆったりと流れる豊かな水、川岸でダンスをする村人たちが、甲板でダンスをする人々を乗せた船がゆっくりと進んで行くのを眺めたり、教授の帰りを待つ村人が出迎えのために道の両側に点々と置く灯火など、キラキラと輝く映像に目を奪われ心が洗われます。日本で上映する際に「百本の釘」ではなく「ポー川のひかり」という抽象的なタイトルにしたのも、テーマの深さや映像の美しさゆえのことでしょう。
本作品も素敵ですが、エルマンノ・オルミ監督作品で私が好きなのは『
聖なる酔っぱらいの伝説』です。ホームレスの酔っぱらいに訪れた奇跡のような夢物語。ワイン好きにはたまらない作品なのですが、お酒の苦手な人にはとんとわからないというか興味の持てない映画かもしれません。この映画の話はいずれまた。。。